※ちょっと長いので、時間に余裕がある時にどうぞ◎
昨日、沖縄から帰って参りました。
非常に濃い4日間でございました◎
ジャマイカと同じ緯度にある、この沖縄◎
リゾートだけで行った訳じゃなく、真実の沖縄を見ようと
沖縄中を駆け回りました。
まず1日目、飛行機が苦手なので着陸する時は
手汗がビタビタになって、大変でしたが無事着。
夕方にレンタカーを借りて、ホテルに到着。
「相当暑いですよねー?」とホテルのお姉さんに聞くと
「そうですね、今日は春が来たかと思うくらい温かいですね」
って、ふつうに25℃もあるんですよ◎
本当に抜けてて面白いです、癒されました。
それで、夜に宜野湾市にあるNICE TIMEというバーへ◎
なぜに行ったかと言うと・・・アウトサイドやスパークで
「ケンちゃん」という男がKONO-HAの大ファンで相当会いたがっていて
今は沖縄に移住して、バーで修業をしている!!
ってな事を聞いて、いつしかミクシーでメールして
良ければ来てくださいとの事だったので
バーに遊びに行ったのでした。
宜野湾市のキングタコスの隣にあるNICE TIME、
店内には各地のレゲエ
雑貨やTシャツで埋め尽くされていて
店の裏側が、バーになっている◎
噂のケンちゃんとリンクして、相当歓迎してくれてうれしかったです◎
そして、ケンちゃんがお世話になっているケータさんとリンク。
彼は僕よりも年下でラスタマン、沖縄の
大学を出ていて
大学では平和学を専攻していて相当の深いところを知っている。
彼のお兄さんはレゲエ関連のカメラマンで、とっても有名な方◎
NICE TIMEではジャークチキンとカリビアンシュリンプをいただいた◎
ケータさんは、ジャマイカに行ってラスタマンの家に住み込みしたツワモノで、とても素晴らしい味付けでした◎
地元の歌い手さんもお店にいて、いろいろ話せて面白かったですね◎
畑の中で爆音ダンスとかあるそうです◎
みんな時間にルーズで、バスでも平気で遅れたり
早く来たりがあるってなことを平気で言ってました◎
途中で酔っ払って何言ってるかわからなかったけど
とにかく沖縄は面白い人、人見知りしない人ばっかで
終始笑わせてもらいました◎
1日目は夜3時頃に帰って睡眠しました。
2日目は7時に起床して、8時にはホテルを出ました。
本格的に
観光しようと中部から北部に行きました。
・万座毛
・万座ビーチ
・ブセナテラスビーチ
・美ら海水族館
ビーチは美しいし、噂の水族館は圧倒で
ジンベイザメの上に小さなサメが乗っかっていて
相当面白かったですね◎
マンタは空を飛んでるみたいで、優雅でした◎
続いて、古宇利島へ◎
噂の古宇利大橋を通過して、キレー!!と1人で叫び
本当にきれいすぎて最高でしたね◎
ここである家族に出会う。
痴呆症のおばあちゃんとその家族夫婦。
おばあちゃんを連れて旅行なんですって、
おばあちゃんは砂浜で
子供のように砂をかき集めていた。
「これでも幸せなんですよ」と幸せそうに笑って言っていた。
何も言葉が浮かばなかった。
きっと幸せは生きていることなんだろうと思った。
苦労のない生活なんてこの世のどこにもないと思う。
綺麗な海と家族を眺めながら1時間ほど色々物事を考えました◎
その後にブルーシールアイスクリームを食べながら
一気に北部へ、1時間30分ほど◎
・芽打バンタ
バンタってのは方言で、崖って意味らしいです。
束ねたカヤを投げ込むと強風でバラバラになるから
こんな名称らしいですよ◎
結構絶景ですなー◎
次に最北端の辺戸岬。
この辺戸岬は1945年の地上戦でアメリカ軍上陸から
ほんの数日で制圧された場所です。
最北端には写真にあるように石碑があるんです。
「全国のそして全世界の友人へ贈る」
吹き渡る風の音に耳を傾けよ。
権力に抗し復帰をなし遂げた大衆の乾杯の声だ。
打ち寄せる波濤の響きを聞け。
戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ。
“鉄の暴風”やみ、平和のおとずれを信じた沖縄県民は、
米軍占領に引き続き1952年4月28日
サンフランシスコ平和条約第三条により、
屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた。
米国の支配は傲慢で県民の自由と人権を蹂躙した。
祖国日本は海の彼方に遠く、沖縄県民の声は空しく消えた。
われわれの闘いは蟷螂の斧に擬された。
しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ、
全国民に呼びかけ、全世界の人々に訴えた。
見よ、平和にたたずまう宜名真の里から、
二七度線を断つ小舟は船出し、舷々相寄り勝利を誓う
大海上大会に発展したのだ。今踏まえている土こそ、
辺土区民の真心によって成る沖天の大焚火の大地なのだ。
1972年5月15日、沖縄の祖国復帰は実現した。
しかし県民の平和への願いは叶えられず、
日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された。
しかるが故にこの碑は、喜びを表明するためにあるのでもなく、
ましてや勝利を記念するためにあるのでもない。
闘いをふり返り、大衆が信じ合い、自らの力を確め合い、
決意を新たにし合うためにこそあり、
人類が永遠に生存し、
生きとし生けるものが自然の攝理の下に
生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある。
と書いてある。
たった62年前に、海にはたくさんの戦艦が埋め尽くし
地上には戦車。
きっとその日もこんなに強風だったのかなと想像してみる。
でも想像もつかなかった。
こんなに綺麗な海を戦艦が埋め尽くしているなんて
想像もつかない。
きっと戦争は感情も無くすのだろう。
辺戸岬で沖縄そばを食べて、お店の人に
「右側の方に走って行ったらどうなりますか?」と聞くと
「ヤンバルクイナが出るかもよ」と教えてくれたので行くことに。
これまた、半端ない山道と森で自然満載◎
ヤンバルクイナ飛び出し注意の標識ばかり。
しかも見たことない鳥を発見!!!
でもあれがヤンバルクイナかは不明です。
だって色知らないんですもの◎
この道はマジでディープです、
トイレもないんですからね◎
この日は200km/h以上の走行距離で相当走りました。
そして、2日目の夜はケンちゃんとケータさんと三重から
沖縄に移住してきたキョウヘイさんと4人で居酒屋へ◎
沖縄の家庭料理もたくさんあって、角煮とか相当おいしかったです◎
そこは地元の人で満席で、いろんな人がいておもしろかったですね◎
ケータさんが学んできた平和学を少しだけ教えてくれて、
卒業論文の1つで、沖縄の若者に基地についてインタビューした。
「もし基地がなかったとしたら、どう思う?」という問いに
「そんなの考えられない、生まれた時からあるから」と答えたそうです。
とっても興味深かったですね、きっと個人差はあるんでしょうが
基地のフェンスっていうのは、沖縄の人にとってはある意味
ふるさとの景色の1つでもあるのかもしれない。
実際、本土にいる僕らから見れば基地は絶対反対!!
って思うのですが、沖縄では意外にも共存という道を
歩んでいくのかなと肌で感じました。
でも、夕方に国道を走っていると、片側はすべて基地という
風景が続き、相当な面積に基地があると知り愕然とした。
次に今あるアメリカ軍の基地、実は戦争前は日本軍の基地だったと
ケータさんが教えてくれた。
1945年の地上戦で、アメリカ軍が上陸して一気に占領され
日本の基地はアメリカのものになった。
そう考えると基地自体、戦争前からあって
あの風景だったんだろうなーと思う。
事実、国内の基地の約70%が沖縄にあるそうです。
ケータさんが沖縄の大学に在学中に、大学内にヘリコプターが
墜落したそうです。 あの有名な事件ですよね。
最も危険な基地だそうです、一般市民の生活の場と隣接しているから。
それでも、共存の道を進んでいる・・・
僕は極力、反対の位置でいたいとは感じています。
基地なんてなくても良い地球治安さえあればいいんだから。
リゾートだけじゃない沖縄を知る事が出来た夜でした◎
ケンちゃんとケータさんが連れてきた沖縄の若者達と一緒に語り
この2日目の夜は、夜中3時頃の就寝。
3日目は7時に起床。
今日は南部へ。 南部は戦争で最も過酷だった場所。
この南部へ来るのがこの一人旅の本当の目的だった。
2日目の夜に、知念岬はキレイと聞いていたので寄ってみた。
雨だったから少し劣るけど、十分にキレイでした◎
次に向かうのは平和祈念公園。
実はこの場所が、本当に来るべき場所だった。
戦争当時、この平和祈念公園のあるこの一帯は
さとうきび畑だった。
「ざわわ ざわわ ざわわ」と歌われた
さとうきび畑はこの場所で生まれた。
とても有名なエピソードがあって
戦争後に作曲家の寺島尚彦さんが、南部のさとうきび畑に案内され
「この土の中に戦没者の遺骨が埋もれたままになっています」と
現地ガイドに教えられたそうです。
それを聞いた瞬間に、吹き抜ける風が
戦死者達の声に聞こえたそうで、これを内地に伝えなくちゃいかん
という事で、さとうきび畑を作ったそうです。
「さとうきび畑」
1.ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
今日もみわたすかぎりに
緑の波がうねる
夏の陽ざしの中で
2.ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
むかし海の向こうから
いくさがやってきた
夏の陽ざしの中で
3.ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
あの日鉄の雨にうたれ
父は死んでいった
夏の陽ざしの中で
4.ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
そして私の生まれた日に
いくさの終わりがきた
夏の陽ざしの中で
5.ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
風の音にとぎれて消える
母の子守の唄
夏の陽ざしの中で
6.ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
知らないはずの父の手に
だかれた夢を見た
夏の陽ざしの中で
7.ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
父の声をさがしながら
たどる畑の道
夏の陽ざしの中で
8.ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
お父さんて呼んでみたい
お父さんどこにいるの
このまま緑の波に
おぼれてしまいそう
夏の陽ざしの中で
9.ざわわ ざわわ ざわわ
けれどさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
今日もみわたすかぎりに
緑の波がうねる
夏の陽ざしの中で
10.ざわわ ざわわ ざわわ
忘れられない悲しみが
ざわわ ざわわ ざわわ
波のように押し寄せる
風よ悲しみの歌を
海に返してほしい
夏の陽ざしの中で
11.ざわわ ざわわ ざわわ
風に涙は かわいても
ざわわ ざわわ ざわわ
この悲しみは 消えない
僕はこの曲のルーツに会いにきた。
平和祈念公園の岬に立って、このリリックを思い出してみた。
本当に強い風が吹き抜けて、他の音なんて1つもない。
自然と涙が出る、このリリックにあるように
涙を乾かすくらいの強風が吹く。
このリリックが伝えるものは本当だった。
岬の近くに戦死された方々の名前が彫ってある石碑がある。
2日目の夜にケンちゃんの彼女に教えてもらった。
「沖縄の人、先祖のうちの1人以上あの石碑に名前が書いてある。
遠足とか
学習で行くと名前を探して、みんな写して持って帰る」
その石碑には膨大の数の名前が県別で彫られている。
日本人の名前が大半を占める。
でも、アメリカの方も亡くなっていてアルファベットで
彫ってある石碑だってある。
どっちも戦争の被害者なんだと実感した。
沖縄の地上戦で亡くなった方は民間人15万人
兵士7万5千人、
外国人1万5千人。
この外国人の中には当時の
韓国からの強制連行者約1万人の
一部が含まれるそう。
24万人近く亡くなっている。しかも民間人が15万人。
たった60年前にそんな事が起きたなんて、知る由も無かった。
平和祈念資料館にも足を運んだ。
短い中にも相当詰め込んである。
「人間が人間じゃなくなる」という表現が多くて
「人間が人間じゃなくなる」なんていう言葉は
僕の頭の中には、聞いた事のない言葉だった。
その後、すぐ近くのひめゆりの塔へ。
献花をして、資料館に行きました。
実際に生き残っている人は少なくなっているそうですが
館内でインタビューの映像が流されていました。
「夜に突然、解散命令が出て防空壕を飛びださなくてはならなかった。 友人と手をつないで防空壕を出た。
途中、日本兵から自決用の手りゅう弾をもらった。
山の中で手りゅう弾の栓を抜こうとした時に友達が
「お母さんの顔見てから死にたい!」と叫んで
向こう側から先生が「栓を抜くなよ!」と叫び声が聞こえて
我に帰って自殺しなかった。」
「お母さんの顔見てから死にたい」なんて言葉、考えた事もない。
どんな心の様相なのか想像もつかなかった。
本当に何も浮かばなかった、真実だったという実感のみでした。
次は喜屋武岬へ。
この喜屋武岬は、最南端で最後の戦場。
ガケまで追い詰められた人達の多くが、崖から飛び降りた場所。
この喜屋武岬までの道が畑で、映像で見た戦争風景そのものだった。
本当に風が通り抜ける音だけだった。
喜屋武岬の崖は相当高い。
ここから飛び降りるしか選択肢がない状況とはどんなものか
どんな心の様相なのか、僕には分からない。
こんな綺麗な海を戦艦が埋め尽くして、戦争が起こったなんて
残酷すぎる。
でも、これは真実そのものだった。
綺麗な海だろうと、何だろうと国同士が争いあって
そこにはたくさんの犠牲者が出る。
平和というものは、最初からあるものじゃない。
平和は築いていくしかない。
南部は本当に良い勉強になった。
その後、またNICE TIMEに行って
ケータさん・ケンちゃんとリンクして
那覇市内の居酒屋へ◎
2人とも、でっかい夢を持っている◎
苦労はあっても自由に生きている◎
ケンちゃんは、愛知から出て、知り合い誰一人いない中で
沖縄に行ったんですね◎
でも、ちゃんと良い人達に出会ってちゃんと生きている。
素晴らしいですね◎
来年はこのリンクを生かして面白い事をやって
いこうと思っています◎
3日目の夜は朝の6時まで語って
最後に最強火力で美味しい沖縄そばをいただいて
終わりとなりました◎
本当に良い、一人旅となりました◎
ほんの少しだけ、沖縄の事を知れた気がして
また今日から頑張れます◎